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僕は遠くで戦争の音を聞いた気がした

となり町戦争
三崎 亜記 / 集英社
スコア選択: ★★★★





今日は1日家におりました。そして『となり町戦争』(三崎亜記・著)を読んでいました。雑誌等でとりあげられていますし、読んだ方も沢山おられるでしょう。突如として「僕」の住む町と、隣町との間で戦争が開始されるんですが、それすらも文書によって知らされるだけで、何がどう変わるということもなく、銃声が聞こえるでもなく、戦車が走るでもなく、建物が壊れるでもなく、どこでどんな戦争が行われているのか分らないままに、淡々と日常は過ぎていき、しかしそれでも広報誌には「戦死者」という統計上の数値が間違いなく記されている。やがて「僕」は自身の町に設けられた「となり町戦争係」より、敵地の偵察業務を任命され、正体不明の戦争に参加することになる。

僕は、はじめこの「戦争」という言葉が比喩的なものだと思った。合併問題みたいなね。「戦死者」も何かの言い換えだと思っていたのだが、話が進むと、実際に本当に人は死んでいたことが分った。なのに、遠い。「戦争」がまったく見えない。この戦いがどんな意味を持つのか、役所の人間の言葉はまるで事務的で、要領を得ない(気がする)。そして話が進めば、「戦争」は「事業」で、隣町と「僕の住む町」は前々から「協力して戦争事業を遂行していこう」という協定書を結んでいたのだということが分る。なんだこれ。戦争の説明会(変な話だ)では、みんな「なぜ戦争をするのか」という話は一切せず、「○○な場合の補償はどうなるんだ」とか、そんな質問ばかり。だがみんながみんな異議を唱えないわけではなく、異議を唱えるものもいるのであるが、その異議は役所の人間のスポンジみたいな受け応えに吸い込まれてしまう。そして戦争は見えない。

敵地に共に潜入し偵察業務をすることになった役所の人間「香西さん」と「僕」は、偽装結婚という形をとる。彼女と「僕」のやりとりもまた、どこか滑稽で、シュールさが漂うのであるが、それでもこの「香西さん」が公私の間で揺れている部分が、どこかにリアリティを生み出しており、作品を完全に浮世離れしたものにはしてない。だが思う。「こんな戦争おかしい」って、そう言えるほどに僕らは戦争を知っていないということに、やがて僕は気づいた。いったい僕は何を知っている?戦争について、ただのイメージ、それこそ映画などのステレオタイプ的な映像しか思い起こせないではないか。もちろん、そのステレオタイプ的な「戦争」と本書の「戦争」がどこかズレているのは確かなのであるが、でもやはり僕が戦争を知らないことに変わりはない。

本書は戦争(←これは世間一般でいうところの「戦争」の意味だ)を否定も肯定していないように、僕は思う。ただそこに「ある」ものとして描いている。僕は作者の三崎さんが何を意図して本書を書いたのか知らないが、ただ、「戦争の正体が分らないこと」への、少しの悲しみが滲む。何も分らない戦争の中で、「僕」にとって唯一の「リアル」だった「香西さん」、「僕」は彼女を失いたくないと思うが、彼女は「終戦」後、となり町の町長の息子と結婚することを「僕」に伝える。喪失。戦争の中で何かを失うことのどうしようもなさ、空しさのようなものが、終章でようやく描かれる。そこで、ようやく「僕」が「戦争」を感じた、ように僕は思う。でもそれは、物語として、綺麗に幕を下ろしただけであって、僕はこの物語の要点は、以下の部分に集約されているように思う。たとえそうでないにしても、僕はこの箇所が1番印象に残っている。

「まあ、もちろん。身体の痛みじゃない、忘れられん痛みというのもあるですが」
主任は、背もたれにもたれて、胸のあたりに手を置いた。さっき僕に見せた傷跡を押さえているわけではないようだった。
僕は、主任をまねて胸に手を置いて思う。僕にとっての「戦争の痛み」を。でもそれは無駄なことだった。戦争がわからない僕には、戦争の痛みもまたわかるわけはないのだ。
(p.136)

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